「子供はいない」考察

オレ句会。今、選句をして皆さんの前回の選評を読み返してて不意に「分かった(自分なりに)」ことがある。俳句の中で(「子供がそうした」と明記してない句で)子供っぽいことを言っててもそれは子供の気持ちを描いた句ではないしそう解するべきでない(と僕は思う)。

前に「手押しポンプの影かっこいい夏休み」という句が褒められたが「かっこいい」という言い方や「夏休み」のせいか、「子供」の気持ち、あるいは「童心になってる」と褒められることに違和感があった。いやいや「大人」のオレが「今」真面目に思ってるんだ、と。

俳句をやってる人ほど、「作中人物を子供ということにした上で肯定する」傾向があって、尊敬する俳人でも、そこだけは「違う」と思う。大人でも「かっこいい」という言い方しか言えないことや「夏休み」としか言語にできないことはあるはずなのに。

一方、俳句をやってる人ほど、名句について(俳句を勉強して知悉してるから)作者の境涯をからめて鑑賞する。だったら「かっこいい」と「いう人」=どこかの子供でなくその作者だと、ちゃんとからめて「みる」べきなんじゃないの、と。

で、「分かった!」(自分なりに)というのは、俳句は、大人のものだということ。「俳句」を解して作って、それが俳句だったら、その人はそのとき「大人」。俳句の中に「景色として」いても、子供は「いない」の。「子供じみた」ことはあっても(かっこいいとか)。

そういえば「こども俳句」なんて「言葉」もある(こども短歌とはあまりいわない)。作者の実年齢が子供でも、その句が「俳句」だったら、その句のときだけ「大人」なんだ。これは僕が(勝手に)今日おもった、俳句の「定義」。

(以上、凡コバ夫センセー)